泊舟院の歴史
泊舟院の歴史
足利時代大宰少弐資嗣が佐賀に存りし頃、中国の豪雄大内徳雄なる人物が飯盛城に在住した。
飯盛城は本庄村上飯盛の常照院の地であった。時に事情あって資嗣がこれを攻めた。その時、資嗣は本庄、与賀、川副方面の豪士をつれて夜襲をかけ飯盛城を陥落させた。
大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て筑前に逃れた。その時軍は退却しつつ高太郎に来て潰滅した。
その追撃戦に大いに功績をたてたのが小太郎丸、高太郎丸の両名であった。
これによりこの地を平定し豪族として勢いを得た。現在の高太郎は領主の名をとって字名とした。
文化14年(1817)の郷村帳によれば、秋丸小路、中ノ小路、舟津小路、蔵床小路、野口小路、唐津村の各集落からなる、かなり広範囲の村であった。
出典:西与賀の歴史とその周辺p8
【開山】 慶長3年戊戊(1598年)8月示寂
龍泰寺3世 建立開山傳叟俊的大和尚
【本尊】 聖観世音菩薩
【開基、由来】 不詳
【現住職】 當山11世道幹和尚